開業決意と医院理念

医院理念=診療理念+経営理念
<医院理念を明確化することで得られるメリット>
・判断基準を作ることで開業前後を通じてブレがなくなり、院長のストレスが軽減する
・理念に共感するスタッフを採用しやすくなる
・医院の方針が明確になり、スタッフが主体的に動きやすくなる
・明確な理念が医院のブランディングを助ける
・関連業者の協力を得やすくなる

<医院理念明確化のポイント>
・マインドマップを活用
・歯科医師を志した動機、勤務医時代の経験などを振り返る
・時系列、患者・スタッフ、診療時間など、可能な限り多くの切り口や立場で考える

“35歳で横山歯科医院を開業”

就職祝いに父親から贈られた茶革の手帳、その最初のページに勢いよく書かれている。
横山はぼんやりと眺めながら、差し出されたジントニックを口に運んだ。

週末だというのに5席あるバーカウンターには横山以外に腰掛ける者はいなかった。
マスターはきれいなグラスをひたすら磨き続けている。

35歳で開業するというこの目標を手帳に書き込んだときのことはよく覚えていない。強い覚悟とともに記されたのかもしれないが記憶はない。きっと考えの深さとしてはその程度のものだったのだろう。ただ、“35”という数字を毎日のように眺める中で、いつしか開業が自分にとって、ごく当然にやってくるライフイベント、つまり入学式や成人式みたいなものに変わっていた。

大学同期の約半分はここ数年の間に次々と開業していったが、順風満帆という話はほとんど聞かなかった。「歯科業界は厳しいから」という決まり文句が言い訳のようにも、はたまた恐ろしい忠告のようにも聞こえた。
「絶対に成功したい…」
確かな覚悟とともにジントニックを飲み干したとき、背中から貫禄のある聞きなれた声がした。

「久しぶりだな、横山先生。君もようやく開業する決心がついたか。今日は朝まで付き合ってやるよ」

大きな体を揺らし、立派に蓄えた口髭をさすりながら大倉はゆっくりと席に腰掛けた。
横山が研修を終え最初に勤務した歯科医院の理事長、それが大倉だった。わがままを言って転職した後も、事あるごとに相談に乗ってくれる、横山が最も尊敬し信頼を置く歯科医師だった。その自信に満ち溢れた顔を見るのはちょうど1年ぶり、大倉が理事長を務める医療法人七星会の創立20周年パーティーに出席して以来だった。

「大倉先生、開業する覚悟は決まりました。さっそく開業準備に取り掛かりたいのですが、いったい何から手をつけるべきでしょうか?やはり物件探しですか?」

横山は自らの無知を見透かされることを承知のうえで、率直に疑問をぶつけた。

「それより、君はどんな医院を作りたいと思ってるの?」
横山がとっさに応えられないでいると大倉は不敵な笑みを浮かべながら、無言で何度か頷いた。
「メインターゲットにする患者年齢は?その患者はどんな悩み事を抱えてる?それに対して君はどんな治療をして、その結果どんな感想を持ってもらいたい?もっと言えば、それによって患者の生活、人生をどう変えることができる?」

何となくの流れで開業を決意したとはいえ、もちろん横山にもそれなりの考えはあった。
「私はインプラントとデンチャーに関しては自信があるので、若い方というよりはある程度高齢の方をメインで診たいと思います。食べるということに苦労されている方に対して適切な治療をして、おいしく食事ができる喜びを感じて欲しい…ありきたりですがそんな感じです」

「うん。じゃあ君の理想の診療を実現するには、開業地は都市部?それとも郊外?戸建とテナント、どっちがいいと思う?チェアは何台から始めて、最終的には何台にしたい?そのためにはどれくらいの坪数が必要?スタッフの構成は?受付、助手、衛生士はそれぞれ何名必要?医院のイメージカラーは?初年度の売上目標は?医療法人化は何年後が目標?生活費は毎月いくら必要?」

就職面接のようだなと若干の嫌悪感を抱きながらも、横山は答えられず唇を噛んだ。

「つまり、君が最初にすべきことは、医院理念の明確化、すなわちコンセプト作りだ」

大倉はウォッカマティーニを一気に飲み干して続けた。

「医院理念というのは診療理念と経営理念を包括した考え方だ。どんな患者にどんな治療をしてどうなってもらいたいかという診療理念。どのようなヒト(人員構成、教育、福利厚生)、モノ(内装、設備)、カネ(資金、売上、利益)、情報(ホームページ、内覧会、インフォームドコンセント)でその診療理念を実現していくかという経営理念。この2つの理念が車の両輪のように連動しながら回って初めて医院経営は上手くいく」

「医院理念の明確化…ぼんやりとはイメージできていますが、うまく考えが整理できません」

「そんなときはこの“ツール”を使ってみるといい」

大倉はカバンから年季の入ったノートを取りだし、慣れた手つきであるページを横山に示した。

「こ…これは何ですか?!」

中心から放射状に伸びる無数の枝、その枝からさらに下層へと枝が伸び、蜘蛛の巣にも似た図が描かれている。

「マインドマップ、聞いたことはないかい?自分の頭の中、心の中の抽象的なイメージを整理しながら地図のように可視化するためのツールだ。これはまさに20年前、私が開業するときに描いたものだ。ここを見てごらん」

大倉の指さす先に目をやった瞬間、背中に震えが走るのを感じた。

「20年後、5医院となった医療法人グループの記念パーティーを開催。その後は一線を退き、若い歯科医師の開業支援を行う…これを20年前に書いたんですか?そしていま、その通りの現実になっているってことですか?」

大倉は胸のポケットから重そうなペンを取り出し、20年前に立てた目標に勢いよくチェックマークを入れた。

「人間なんて所詮、イメージできないことは実現できない。逆にイメージできることならなんだって実現できる。鳥のように空も飛べたし、月にだって行けただろ?」

横山は覚悟の後ろ側に隠れていた興奮や情熱といった感情が少しずつ顔を見せ始めているのを実感していた。

「マインドマップを使いこなすコツは、徹底的に自問自答を繰り返すこと、そして1つでも多くの切り口を見つけ出すことだ。診療時間、ホームページ、患者数、乗りたい車、思いつく限りの要素を切り口にして理念を時系列に具体化していく、考えただけでワクワクしないかい?君はまだ開業前。何を目標にしようが、どんな医院をイメージしようが自由じゃないかい?」

大倉はピスタチオをつまみ、さらに続けた。

「医院理念が明確になれば、開業前も開業後も決してブレない。決断ないし判断することが仕事の経営者にとって、これは非常に大切なことだ。そしてもう1つ、医院理念を形にすることで得られる大きなメリットがある」

ミックスナッツからブレずにピスタチオばかりを選択する大倉に感心しながら、横山は解答を促した。

「協力者が現れるということだよ。開業準備も医院経営は決して一人の力だけではやっていけない。君の想いに共感し応援してくれる人が必要なんだ。銀行、税理士、スタッフ、技工所、君がこれから関わる全ての人が協力者になってくれたとしたら、それだけで成功できると思わないかい?」

「まずは私が協力したいと思えるだけのビジョンをマインドマップで作りこんでごらん。これまでの勤務先を思い出し来週のこの時間にまたここで、宿題しっかりやってくるように」

そう言うと大倉はマスターに「つけといて」とだけ伝え、颯爽と夜の街に消えていった。

「朝まで付き合ってやるって言ってたのに…」

横山は静かに流れるジャズの中で、決して調和しない早い鼓動を感じていた。

※この内容は「Quintessence」2016年1月号掲載に加筆修正したものです。

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